ニラカイ

冷たい風が吹いた。両腕の表面から体温だけ奪っていくような風だった。半袖だから寒い、と言うと、龍は私の鞄からカーディガンを取り出し、肩にかけてくれた。そのあとで、背中の真ん中あたりまで伸びた黒髪を整えてくれた。掌は顔立ちを裏切らずごつごつとしていて、だがしっとりとしている。おもちみたいだ、と思っていても、口に出したことはない。ありがとう、と振り返ると、喉を鳴らしただけの返事をして、すぐそっぽを向いてしまった。短く刈り込んだ金髪に街灯が真上から当たり、白髪のように見えた。顔の彫りもはっきりと見え、一瞬だけ年老いた姿が見えた気がした。駅から帰る道では、こうして私が先を歩く。俯瞰では、今まさに襲いかかろうとしている暴漢と女子大生に見えるかもしれない。

まっすぐ伸びた大きな下り坂の片側に、今年の役目を果たした桜の木がせり出している。そこを少し過ぎたあたりで龍の足音が止まる。あ、と聞こえたので振り返ると、用水路に掛かった短い橋の上で、下を覗き込んでいた。

「何?何かいた?」

「うん、あひるかな。」

藍色の水に浮かんでいたのは、軽鴨の親子だった。あひるはこんなところにはいないよ、あれは軽鴨。龍はすこし笑って、そっか、と言ってその親子をしばらくじっと見ていた。彼らは流れに逆らうように脚を動かし、その場にとどまっていた。水路は真っ直ぐに伸びていて、先は両側から生えた木で見えなくなっている。水と空の色が同じで、アパートの灯が反射して、ダイヤモンドが空に向かって注ぎ込んでいるように見えた。新月だった。こんな絵をどこかで見た気がしたが、思い出せなかった。行こうよ、と言うと、また喉を鳴らして答えた。特に名残惜しそうではなかった。

橋の上にいたのでまた少し寒くなった。龍がおもちの手でカーディガンを掛け直してくれた。私を愛してくれているであろう手。髪をとかしてくれる手。抱きしめてくれる手。守ってくれる手。私の数少ない好きなものの一つだ。電車を降りた時、その手で私の親指同士を後ろ手で結んだ結束バンドが、その夜と龍と私を結んでいた。

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